鬼子母神参りで賑わう
円頓寺
 円頓寺商店街の名前は、その一画にある円頓寺という寺に由来する。
 天守閣棟木の余材で作られたという鬼子母神像には、安産や子どもの健やかな成長を願って多くの人々が参拝に訪れ、非常な賑わいを見せた。

    江戸時代初期に創建   鬼子母神参りで賑わう



江戸時代初期に創建
 長久山円頓寺は日蓮宗の寺で、承応3年(1654)に普敬院日言によって創建された寺だ。当初は普敬院の寺号であったが、明暦2年(1656)に円頓寺に改名している。

 当初は広井村八軒屋敷(中橋の西)にあったが、享保の大火(享保9年、1724)で焼失し、翌10年(1725)に現在地へ移転して再興された。
 商店街の名になるほど親しまれた円頓寺だが、太平洋戦争で山門を残して灰燼に帰したが再建され、平成16年(2004)には現在の本堂などに建て替えられている。

 門前の灯籠と風化が進んだ宝塔は、文化10年(1813)に建立されたものである。



『尾府名古屋図』 宝永6年(1709)



鬼子母神参りで賑わう
 円頓寺は鬼子母神で有名である。
 祀られている鬼子母神像は、天守閣棟木の余材で刻まれたものだ。
 二世日道上人が、初代藩主義直の側室である貞松院のために安産と子育ての祈願をした功績で藩主から頂いたものだ。

 鬼子母神は1,000人の子があったが、他人の子を奪って食べたので、釈迦がその最愛の子を隠して戒めた。これにより改心して、以後は安産・育児の神になったという。

 江戸時代、子どもの死亡率は高く、健やかな成長を願って鬼子母神は多勢の参拝客で賑わい、正月15日から29日までは15日連続の説法が行われたという。『尾張年中行事絵抄』には「円頓寺賑合」と題して多くの人が参拝する様子が描かれている。また『尾張名所図会』には「毎月二十九日参詣群集す」と書かれている。

 山門右手に残る「明治三十六年二月廿五日」「鬼子母神講中」の文字が刻まれた石柱は、人々の信心を集めていた証しである。




『尾張年中行事絵抄』
山門脇に描かれている宝塔と灯籠は
今も変わらず建っている




 2022/04/24