堀川と深い縁
洲 崎 神 社
 若宮大通りに面して鎮座する洲崎神社は、名古屋の街ができる以前からの神社である。堀川開削にあたり福島正則が成功を祈願したとも伝えられるが、広大な境内は堀川の開削により分断されて狭まってしまった。しかし祭礼は、神輿巡行や御葦流し、巻藁船などが堀川で行われ、堀川と縁が深い神社である。

    海に面した洲崎   開府以前 広大な境内   神輿巡行・御葦流し・巻藁船



往古 海に面した洲崎
    堀川の東、道一本隔てて若宮大通に面して洲崎神社が鎮座している。名古屋の街ができるずっと前からここに有る神社だ。
 
 「洲」とは、川などの土砂が堆積して陸地になった所だ。この州に面し突き出している場所が洲崎。だから洲崎という地名は日本各地にある。

 『那古野府城志』には次のように記されている。
 「伝云、往古此地東北は岳、南は谷、西は入海の由、妥に天王鎮座有に仍て洲崎天王と称す、又天王崎ともいふ。」
 ずっと昔、神社の東北は山だったという。南は谷とあるのは大正頃まで流れていた紫川の谷で、その南は大須になる。この地形は今もはっきりと残っている。西は入り海と書かれているが、弥生時代は北区にある志賀公園あたりまで海が入り込んでいたという。永い年月を経て土砂の堆積が進んでいるが、堀川西の標高は今でも2mぐらいしかない。


現在の地形 電子国土Webで作成
 この場所は今の地形図を見ても、洲崎という地名がぴったりの場所である。




開府以前 広大な境内
 神社の由来書きによると「慶長十五年、堀川堀割りの御普請惣奉行羽柴正則御普請成就を祈願」とある。堀川開削にあたり、福島正則がこの神社に工事の成功を祈願したのだ。

 神の加護が有ったのか、堀川は無事竣工した。だが堀川により洲崎神社の境内地は大きく削られてしまった。
 『那古野府城志』にはこう書かれている。
 「境内元今の水主町に至れり、今水主町八角堂の入口に所在の清水は、即当社の御手洗の神水也、其辺椋榎樫松の林なりし故、椋(むく)の森と云ひし由」。
 かつては水主町(現:名駅南二丁目)の八角堂前に湧き出す清水が神社の御手洗だったが、堀川で分断され境内ではなくなってしまった。残念に思った神主が、享保9年(1724)に石碑を建立した。この石碑は、今は八角堂の境内に立っている。


八角堂にある「広井天王みたらし」(洲崎神社御手洗)の石碑




堀川で 神輿巡行・御葦流し・巻藁船
 享保(1716~36)の頃、この神社の祭りを昔に戻して、御輿を舟に乗せて堀川をさかのぼり当時の堀留(現:朝日橋)まで行き仮屋(御旅所)に安置した後、陸路を通って練り歩いて還御し、併せて御葦流しが行われるようになった。

 御輿の堀川巡航はその後絶えてしまったが、御葦流しは続けられた。これは神社に1年間保管した葦を川に流し、それが着岸した所はお目出度いこととして仮の社を建てお祝いをする行事だ。
 この行事もいったん途絶えたが、文化元年(1804)に復活した。
 『猿猴庵日記』には、「堀川通、或は熱田辺より御葭迎として、大勢、水中をおよぎ来り、奪ひ取て、御葭、西水主町へ取。幣帛はあつたへ取行し由。今宵、船二輌も渡し初む。」と記録されている。どこの村も自分の所へ流れてきてほしいと願っている。ならば、待っていることはない。葦を迎えに行くということで、大勢の人が堀川を泳いで流された御葭を取ろうと競い合った。大変な熱狂ぶりである。
 翌2年(1805)は、神䦰(しんきゆう=くじ)で熱田新田に御葭を迎えることになった。だが、くじが当たらなかった他村の人々が恨み、この帰り船に大石を投げ付けたので5~6人の人が死に、その結果翌3年(1806)の御葭流しは役所から禁止されたと、同日記に書かれている。

 御葭流しは行われなかったが、巻藁船が出た。「津田氏門弟中より、舟祭を催し、てうちんの飾り津嶋の体に数多灯し、うりの紋の幕を打廻し、堀川をこぎ上せ、舟中にてはやし物有。又、町より一艘、館舟を飾り、同様に桃燈を数多灯して近辺漕歩行、賑合。諸士方より舟祭を出す事、珍事也」とある。『尾張年中行事絵抄』や『尾張名所団扇絵』には、堀川を行く巻藁船と岸辺の雑踏の様子が華やかに描かれている。

 今の人が郷愁を感じる巻藁船は、熱田神宮の祭礼の時に七里の渡し前で奉納されたものだが、明治39年(1906)に始まった祭だ。その100年前に洲崎神社の祭礼で堀川に巻藁船が浮かべられている。


広井天王崎祭 『尾張年中行事絵抄』

天王崎祭礼 『尾張名所団扇絵』




 2022/01/21