御神木だった
松原緑地の大楠
 日置橋の北東にある松原緑地には巨大なクスノキが生えている。樹齢千年とも言われる古木で、幹は大きな空洞になり枯れているがひこばえがうっそうと葉を茂らせて威容を誇っている。


    江戸時代は山澄氏の下屋敷   雲龍神社の御神木に   大楠を保存し 松原緑地へ



江戸時代は山澄氏の下屋敷
 松原緑地にそびえる楠について、江戸時代の『名古屋府城志』に次のように記録されている。
 「日置城在日置村、織田掃部忠寛居之。其地有古楠樹一株、今在山澄氏別業中」

 かつて日置村には日置城があり、織田忠寛(タダヒロ)の居城だった。そこには古い楠があり今は山澄氏の別荘(下屋敷)になっているという内容だ。
 

「日置村絵図」
 織田忠寛は楽田(現:犬山市)城主の織田寛貞の子で信長に仕えた。武田氏との交渉役を務めたり、伊勢侵攻や長篠の戦いに参加し戦功を上げている。天正4年(1576)に誅殺されたというが諸説ある。
 また、山澄氏は4千石の俸禄を受ける尾張藩の重臣で、三の丸内の現在県警本部がある街区の南西部分に本邸があり、日置橋北東に下屋敷を持っていた。

 この楠は、戦国武将や藩の重臣も眺めた古木である。




雲龍神社の御神木に
 明治以降、ここに雲龍神社が祀られ大楠は御神木になった。
 永い年月を経た樹なので、戦前にすでに樹勢が衰えて昔の面影がなくなり衰退が著しくなってきた。このため昭和15年(1940)1月に有志により「大楠保存会」がつくられ、保存と保護に取り組みはじめた。しかし、昭和20年(1945)3月の空襲により大楠は焼けて枯死が危惧されたが、幸いひこばえが成長し緑を保ってきた。

 戦後の戦災復興土地区画整理事業で、この土地は名古屋市の保留地になり楠は存続し続けた。
 保留地は本来は売却して事業の経費に充てる必要がある。神社があるので市から地元へ買取を提案したが、多額の費用を負担できずそのまま年月が過ぎていった。

昭和13年(1938)の日置橋
屋根の上にそびえているのは
大楠と考えられる 
平成13年(2001)の様子




大楠を保存し 松原緑地へ
 長年にわたり塩漬けの市有地となっている問題が平成9年(1997)と13年(2001)の2回、市の監査委員会から指摘され、13年9月に市は地元へ木を伐採して土地を処分することを通告した。
 しかし、なんとか保存したいとの意見が沸き起こり、松原緑地として整備して保存することになった。大楠の内部は空洞になっており倒壊の可能性があるため鉄パイプの支柱で支え、根の周りは砂などで養生をして保護を図っている。また、政教分離の原則から市の緑地に宗教施設を設けることはできないため、雲龍神社はなくなっている。

 樹齢千年ともいわれ、弘法大師がお手植えした樹、織田信長が桶狭間の戦いに向かうときに戦勝祈願をした樹という伝説もある大楠は、今も静かに人々の暮らしを見下ろしている。
平成24年(2012)の様子




 2021/09/14