明治になり西洋の文化がどんどん入ってきた。早い時期に受け入れられたのが西洋医学だ。
 堀川端には、当時の先端医療と医学生の育成を行う愛知病院と医学校があった。板垣が岐阜で暴漢に襲われた時には、病院長が治療に駆けつけたという。

    西洋医学の黎明   開業当時の様子   板垣退助と後藤新平



西洋医学の黎明
   西洋医学は、安永3年(1774)には杉田玄白による解体新書が刊行されるなど江戸時代から関心が高まり、漢方医が主流であったもののオランダ商館の医師などから知識を得た蘭方医も一部で活躍していた。戊辰戦争(明治維新の戦争)で、銃創の治療に西洋の医療技術が大きな効果をあげたため、日本の医療は一気に西洋医療へと転換することになった。

 
名古屋で医師の養成 始まる
 まず医師の養成が必要だ。名古屋では明治4年(1872)には旧評定所(本町御門東南)に仮病院、旧町役所(本町御門西南)に仮医学校が開設された。これはわずか1年で廃校になったが、6年に西本願寺境内の仮住まいで医学講習所が設けられた。今の名古屋大学医学部の前身で、お雇い外国人が指導にあたっている。

 
愛知病院・医学校開校
 その後の名称の変遷を経て、明治10年(1877)7月1日、堀川端の元御船奉行 千賀氏の屋敷跡地に立派な西洋建築の愛知病院と医学校が完成し、盛大に開業式が行なわれた。当時の先端医療と教育が堀川端で始まったのである。
 

『愛知県第一区名古屋
并熱田全図』
明治11年

開業当時の 病院と学校
   開業した翌日と翌々日(7月2・3日)に、病院と医学校は一般の人に構内の見学をさせた。1~3日はお祝いの餅投げと振る舞い酒があり、たくさんの見学者が来た。
 細野要斎は友人と3人でさっそく見学に行き『感興漫筆』にその様子を書き残している。

 構内の様子
 正門は堀川側にあり石の門柱が立っている。門から西の方を望むと田野がずーと広がり爽やかな気分になる。
 門から南が病院で、北が医学校だ。  

『愛知県写真帖』 明治43年
   病棟は東西に細長い建物が3棟建ち、建物の間には庭があって木や草が植えられ、金魚を放した池もある。病室はすべて2間四方(3.6m四方=8畳ほどの広さ)で板張りの床になっている。部屋もトイレも浴場も上・中・下の3ランクに分けられている。黒板にチョークで規則が書かれ、入院費は1日あたり、上等が50銭、中等が30銭、下等が10銭となっていた。
 病院の南西に教師館があり、オーストリア人のフォン ローレツが住んでいる。

 医学校は第一教場(教室)第二教場などの張り紙がしてあった。学生の寄宿舎もあり、2間四方の建物が3棟建っている。


板垣退助負傷 後藤新平が治療に駆けつける
   明治15年(1882)、世は自由民権運動のまっさかりである。自由党党首の板垣退助は東海道遊説の旅に出た。
 4月6日夕刻6時、岐阜での演説会場から帰ろうとするところを暴漢が襲い、左胸などを刺され7か所の傷を負った。この時「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという有名な伝説が生まれたのである。板垣は反政府勢力の中心人物。政府とは非常な緊張関係になっており、政府が派遣した刺客ではないかとも考え、第2の刺客の襲撃を警戒していた。

この時の愛知県病院長兼学校長は、後に満鉄総裁、東京市長、内務大臣などになった後藤新平だった。

後藤は、翌7日に岐阜へ駆けつけ、板垣の治療をしようとした。しかし板垣は第2の刺客ではないかと警戒し一時は治療を断ったものの、周りの者の説得でようやく治療を受けたといわれている。12日には明治天皇の勅使が到着し慰問、15日に板垣は大阪へと向かった。

日本の歴史に残る大事件と堀川端の医学校は、一つの糸で繋がっていたのである。 

この医学校は大正3年(1914)に鶴舞へ移転し、平成19年(2007)10月に跡地近くの堀川端に記念碑が設けられた。


 2004/07/13・2021/02/07改訂