近代製材業の誕生
愛知挽木 『愛知県写真帳』 明治43年
愛知挽木(株)
 堀川では江戸時代から筏が行き来し、沿川の材木商などでは木挽きが丸太を板や角材などに製材していた。明治半ばになると愛知挽木がアメリカ製の丸鋸や竪鋸を使った機械製材を始め、堀川沿川は製材工業地帯になっていった。


    明治半ばまで 手挽製材   機械製材 始まる



明治まで 手挽製材
 藩政時代から、木曽山が藩領であったので名古屋は木材産業が盛んであった。その頃は、白鳥の御材木場(貯木場)で藩から払い下げを受けた木材を筏に組んで堀川を遡って旧市街地へ運んだ。丸太は、伝馬橋北東の上材木・下材木・元材木町に店を構える木材業者を中心とする市内の材木店で、木挽が大きな鋸を使って手挽で製材していた。
 明治になり北海道材などが入り大規模に製材するようになると、広い敷地を求めて製材業者は堀川の中・下流部に新たな工場を建設するようになった。

 明治17年(1884)には名古屋(熱田や郊外は含まず)に木挽きが245人、丸太の荒削りなどを行う杣が31人居たとの記録がある。また、明治38年(1905)頃には約500人の木挽きと、50人ほどの杣が製材に従事していた。大きな店は50~70人の木挽きを日々雇用していたという。
 特殊技能をもつ木挽き職人は結束が固く、賃上げを巡ってストライキも起き、雇用主は対応に苦慮するようになっている。


手挽製材
『尾陽商工便覧』 明治21年




機械製材 始まる
   名古屋で最初に機械製材が始まったのは明治22年(1889)のことだ。洲崎橋北西に愛知挽木会社が材木商有志により創立され、29年(1896)には資本金5万円の株式会社になっている。
 アメリカ製の竪鋸2台と丸鋸1台を設置して主に輸出用茶箱や紙巻煙草の荷箱の製造と賃引をした。33年(1900)頃から茶箱生産量は年平均78万個に及んでいる。
 
『築港図名古屋測図』 明治41年

昭和8年の状況
『大正昭和名古屋市史』に加筆
 これをみて堀川沿岸で機械製材を始める者が増えていった。42年(1909)になると愛知県製材組合(組合員20人)も設立されている。

 製材業が大きく発展したきっかけは、大正3年(1914)に始まった第一次世界大戦である。景気による盛衰はあったが、昭和になり更に発展した。
 大正9年(1920)には94工場で1,303人の職工が働き497台の機械鋸が稼働していたが、昭和12年(1937)になると217工場で3,416人の職工と1,323台の機械で製材を行うようになっている。

 昭和12年(1923)刊行の『大正昭和名古屋市史』には、水主町から瓶屋橋まで製材・製函工場が密集し、堀川両岸には材木が係留されて船の通航も十分でないと書かれている。

◇堀川沿線は製材工業地帯
 昭和50年代(1975~)まで、堀川沿川は製材工業地帯であった。堀川岸にはびっしりと筏が係留され、川岸に設置されたクレーンで太い丸太を引き上げ、トロッコで道路を挟んで反対側にある工場へ運び込んで製材していた。川沿いの道路には、至る所に丸太を運ぶためのトロッコレールが道路を横断して敷設されていた。このため川沿いの道を走っている車が丸太の運搬に遭遇し、人力で押しているトロッコが道路を渡りきるまで何台もの車が待っている光景もよく見られた。

   
堀川一斉清掃 昭和41年
水面は筏で一杯
『名古屋今昔写真集』
 
堀川岸のクレーンと
トロッコのレール
平成16年

筏などを係留した環
平成24年




 2021/11/23