貨物輸送の要

名古屋港の倉庫
 貨物の輸送は、運搬と保管で成り立っている。名古屋の倉庫業は、城下町から近代的な工業都市へ変わり始めた明治半ばに名古屋駅近くで始まり、その後、堀川岸にも倉庫が設けられた。
 明治の終わり頃、名古屋港が完成して海外貿易ができる開港場に指定されると倉庫業の中心は港へ移り、名古屋の発展とともに倉庫業も発展していった。 




◇名古屋で倉庫業 始まる
 物資の輸送と一体をなすのが倉庫である。
 名古屋の倉庫業は、明治27年に名古屋駅に近い泥江町で開業した名古屋倉庫が先駆けである。
 40年になると東海倉庫が納屋橋東南の堀川岸で倉庫業を始め、名古屋倉庫も洲崎橋北西に大規模な倉庫を建設している。この背景には、日露戦争後の戦勝景気と、名古屋港が開港所となり港と都心を結ぶ堀川舟運がより活発化してきたことがある。



名古屋倉庫 『愛知県写真帖』 明治43年

◇名古屋港にも倉庫
 名古屋港の倉庫は、明治43年に県営の木造上屋(うわや、輸出入貨物の一時保管場所)4棟、560坪が完成し、45年に名古屋倉庫が2号地の東端(堀川河口)に県有地5,000坪を購入して倉庫を建設している。
 少し遅れて大正8年に東海倉庫が1号地の名古屋港駅東地区で1,360坪の土地を入手して倉庫を開業し、その後拡張している。


『大名古屋市全図』 大正13年

◇他地域からも進出
 このような地元資本による倉庫業に加えて、大正11年になると関東や関西で事業展開していた東神倉庫(現:三井倉庫)が名古屋港に進出した。

 その背景にはこの地方の紡績業が発達し、綿花の需要が増えた事が挙げられる。
 名古屋では明治時代に名古屋紡績や尾張紡績などが操業を始めているが、大正7年には豊田紡績や菊井紡績、8年には共同・中華・内外紡績、9年になると日清紡績が開業している。県下の工場も含めると錘(すい)数は63万7000錘に及び、全国の12.5%を占め、大阪府の24.1%に次ぐ全国で2番目の紡績産業地帯になっていた。紡績工場で使う綿花は年間50万梱(こり)にも及び、神戸から陸上輸送されていた。



『名古屋港全図』 昭和4年

 東神倉庫は日本綿花同業会と協定を結び、会員が伊勢湾に輸入する綿花一切を取扱う事とした。作良新田と1号地にまたがる3,770坪の土地を賃借し、倉庫4棟と上屋2棟を建設して大正11年から営業を始めている。15年までに更に8,000余坪の土地を購入して倉庫の拡張をした。また11万9000円を寄付して、倉庫まで臨港線を延長して荷役の効率化を図った。この延長にあたり今も残る1・2号地間運河の跳上橋が架けられたのである。

 このようななか、大正15年に名古屋倉庫と東海倉庫が合併して東陽倉庫が誕生している。また、昭和2年になると神戸を拠点とする川西倉庫が進出し、羊毛などの保管を行うようになった。

◇戦災と復興
 その後も各倉庫会社は設備の増強を図ったが、太平洋戦争の空襲と、昭和19年の東南海地震、20年の三河地震により1・2号地の建物の多くは焼失・倒壊・大破してしまった。
 戦後しばらくは景気も悪く倉庫も少ないままであったが、昭和25年の朝鮮戦争勃発に伴う特需景気で、海運も一気に活性化した。20年代後半には倉庫の再建も進み、多くは鉄筋コンクリートで建てられた。

◇日本最初……三井倉庫のかまぼこ形屋根
 そのようななか、昭和29年12月に堀川岸の三井倉庫が再建された。
 この建物は日本最初のかまぼこ型(シャーレー型)屋根をもつ営業用倉庫建築で、現在も使われている。
 『あいちの産業遺産を歩く』は、かまぼこ形屋根について次のように記している。
「この工法を利用すると、中柱や一部の梁を不要とし、建設資材が節約できる。中柱がないため、柱のない大空間を作ることができ、作業性と収容能力の面でも便利だ。」







 2023/06/09