尾張の磁器は熱田前新田で誕生
尾張磁器発祥之地 碑

 津金文左衛門頌徳碑の横に小さな碑が建っている。尾張磁器発祥之地碑である。この地と陶磁器産業は何の関係もないように感じるが、熱田前新田が開発された当初、入植していた加藤民吉がこの地で磁器を焼いたのが尾張での磁器製造の始まりであった。




 この碑は尾張で最初に磁器が焼かれたのは熱田前新田である事を後世に伝える為、昭和15年(1940)に名古屋陶磁器輸出組合、名古屋陶磁器貿易商工同業組合、名古屋陶磁器工業組合が建立したものである。

◇瀬戸……陶器を製造
 陶磁器が瀬戸物と呼ばれるほど、瀨戸は全国有数の産地だ。永く名古屋港輸出品の王座を占め、この地方で一番有力な地場産業であった。
 東濃地方で陶器の生産が始まったのは、猿投古窯があるように遙か古墳時代からだ。しかし順調に発展してきたのではない。
 江戸時代初め頃に瀨戸で生産されていたのは陶器だが、有田などでは朝鮮から伝わった磁器が作られるようになっていた。白くて光を通し強度のある磁器は人気が高かった。藩は陶業の保護をするとともに、粗製濫造と共倒れを防ぐため、享保(1716~36)の頃になると一家一人の制を設けた。このため、跡継ぎとなるもの以外は転職せざるを得ない状況であった。



◇熱田前新田……磁器の製造始まる
 熱田前新田ができた時、入植した中で特に農作物のできが悪いものがいた。熱田奉行の津金文左衛門が巡視の時に気がつき庄屋に問うたところ、瀨戸から来た元陶工の加藤吉左エ門・民吉の父子であった。津金は南京焼(磁器)の製法を教え、生活費や事業資金を貸して製造を始めさせ、杯や小皿などが焼かれて新製焼と名付けられた。
 一方瀨戸では、陶磁器産地が新たにできると瀨戸の存亡にもかかわるとして、瀬戸への移転を津金に願い、藩も新製焼は一家一人制の枠外とした。

◇加藤民吉……有田で磁器の製法を習得
 しかしこの頃に作られた磁器は、まだ有田などのものに比べ品質が劣っていた。その頃津金文左衛門は亡くなり、継嗣の胤貞(たねさだ)は民吉に肥前で磁器の製法を探ってくるよう命じた。
 この時代は各藩が一つの国だ。技術は他国者には教えてもらえない。民吉は寺男になったり、窯屋の養子になったりして、4年間かけて技術を覚え文化4年(1807)に帰国した。

 新しい技術が伝わると、瀨戸では新製焼がたちまち増え、活況を呈してきた。
 藩は津金胤貞に毎年100両を与え、民吉父子には名字帯刀を許した。瀨戸の窯神神社には磁祖として民吉が祀られている。




 2023/04/13