貧弱な熱田湊から新港へ
名古屋港の建設
 現在は日本有数の大港湾である名古屋港だが、前身の熱田湊は非常に貧弱な港であった。名古屋の発展に海運は欠かせず、反対意見も多いなか明治後期に名古屋港の建設が始まった。戦災や地震など幾多の障害を乗り越えて発展し港域は広がり、多くの物資輸送に活躍すると共に今では人々の憩いの場所にもなっている。


    大型船が入れない 熱田港   名古屋港の建設   交通機関整備と拡張工事
    戦災と復興 そして大名古屋港へ   親しまれる港づくり   港湾荷役……仲仕からコンテナなどへ
    名古屋港 輸出品の変遷    



大型船が入れない 熱田港
 熱田は東海道七里の渡しがある交通の要衝であったが、遠浅の海で至る所に葦生があり、廻船など大型船の入港ができない港であった。
 このため、廻船などは沖合で水深が深い保田沖(ぼたおき)に停泊し、貨物を小型船に積み替えて熱田で陸揚げしたり堀川を遡って名古屋へ運んでいた。

「干潮の際には一葉の扁舟(平たい小舟)だに進退自由を得ない」と言われる状態であった。




『熱田三ヶ浦町並之図』
天明4年(1784)

『木曽式伐木運搬図会』

◇三菱商会 熱田航路を断念 四日市港へ……明治6年(1873)
 明治6年(1873)になると、政商岩崎彌太郎が率いる三菱商会が、名古屋と東京・横浜を結ぶ定期航路を開設しようとしたが、熱田では入港できないので8年(1875)に横浜と四日市を結ぶ航路を開設している。

◇西南戦争勃発 郵便汽船三菱会社 熱田~四日市航路 開設……明治10年(1877)
 そのようななか、西南戦争が始まった。明治10年(1877)2月15日、薩摩軍16,000人の兵が熊本へと向かった。一方、鹿児島の不穏な情勢を把握していた新政府は、その3日前の11日に名古屋鎮台にも出兵を命令していた(19日出発との説もある)。
 兵員や軍需物資輸送のために、熱田から四日市を結ぶ定期航路の開設が政府から郵便汽船三菱会社(三菱商会と日本国郵便汽船会社が合併)に命令された。同社は3月より浚渫をしながら100トン前後の汽船2隻での運航を始めた。

 戦争は9月に終わったが、運航を維持するため、愛知県3,000円・三重県2,000円・駅逓局(現:日本郵政グループ)1,500円、合計6,500円の補助金を支給することで継続された。
 しかし12年(1879)になり愛知県会で補助金支出が否決され10月に運航は廃止されてしまった。明治3年頃から熱田などの廻漕会社による四日市への航路があったが、この間11年(1878)頃に競争に敗れて廃止されている。

◇黒川治愿による改修……明治10年(1877)
 愛知県技師の黒川治愿は干満にかかわらず船が通航し接岸できるように、黒川の開削と同じ明治10年(1877)に熱田港の整備を行った。
 航路部分の延長1,550間(2.8㎞)、幅12間(22m)を水深5尺(1.5m)に浚渫し、その土で明治新田(現:南区明治一)を造った。航路延長の2.8㎞を熱田から南へ伸ばすと、今の堀川防潮水門の近くにまで達する。当時、保田沖と呼ばれた比較的水深が深かったところから熱田の船着き場まで浚渫したものと思われる。

 せっかく浚渫した航路が土砂に埋まらない工夫もしている。
 東側は明治新田から南へ長さ1,500間(2.7㎞)、幅が6尺(1.8m)の木材を組んだなかに石などを詰めた続枠(つづきわく)を造っている。これは山崎川河口あたりまで達する長さだ。西側は、千歳村の南に、長さ300間(546m)、幅が22間(40m)のコの字型〔総延長622間(1.1㎞)〕の猿尾(さるお)堤を設けている。

 熱田港には、長さ20間(36m)、上部の幅4間(7.3m)、3方に5段の石階段を設けた波止場を築き、小型船なら干満にかかわらず接岸できるようにした。
 これにより、大型船は無理だが小型なら自由に接岸できる港になった。

◇愛知県による航路の浚渫……明治13年(1877)29年(1896)
 県は、200トン前後の船が入港できることを目標にして、13年(1877)から29年(1896)まで毎年1,500〜3,000円の予算で熱田港から保田沖(現在の名古屋港付近)の区間で浚渫工事を続けた。
 16年(1883)に名古屋区長(現:市長)の吉田禄在が県令(現:知事)に出した上申書には、「横浜と四日市との間は、其物貨僅かに一昼夜にして達すると雖、四日市よリ我名古屋へは、其早きは一週間、其遅きは十日乃至半月余の日数を経るにあらざれば到達せざるを常とす」とあり、小型船による中継輸送の問題が年々大きくなっていった。

 県は浚渫を進めたが、なかなか大型船が入れるようにはならなかった。明治20年(1887)に100トン並びに甲板の最大長100尺(30m)以上の汽船の出入りを禁止している。100トンの船は和船の石数では千石船ということになり、江戸時代の熱田湊に比べれば大きく改善されてはいるが、船の大型化はそれ以上に進んでいた。

◇民間で四日市などへの航路開設……明治13年(1877)~
 明治13年(1877)3月に、大阪の尼崎伊三郎が熱田〜四日市〜津〜神社(かみやしろ、現:伊勢市)を結ぶ航路を開設した。当初は1隻の汽船であったが、16年(1883)から翌年にかけて2隻の新船を投入している。

 この盛況を見て、17年(1884)5月に名古屋・熱田財界の主な人々により資本金50,000円で東海汽船会社がつくられ、熱田〜四日市〜神社への船が運航されるようになった。
 同年6月には資本金16,000円で熱田聯合汽船共同会社も設立され、汽船2隻で熱田〜四日市間の定期輸送を始めた。さらにこの年には、四日市にも熱田〜四日市〜神社の定期航路を開設する会社が設立され競争が激化していった。

 翌18年(1885)3月になると、共倒れを懸念した愛知県令(現:知事)の斡旋により、尼崎が行っていた事業を東海汽船会社が吸収したものの、10月には、日本郵船会社(郵便汽船三菱会社と三井系の共同運輸会社が合併)による運航が始まっている。
 20年(1887)には四日市に勢尾汽船会社ができて同じ航路で運航を始め、東海汽船会社は8月に4隻の汽船を就航させて対抗し、激しい値引き競争になった。ついに21年(1888)5月、東海汽船・勢尾汽船・熱田聯合汽船の合併により、熱田に共立汽船会社がつくられた。11隻の汽船で、四日市航路のほか、神戸や長崎への航路も運航したが28年(1895)に大阪商船会社に買収されている。


『尾陽商工便覧』 明治21年
 上に「上社 津 四日市 桑名 其外近港エ日々汽船出航ス」と記載

◇統計にも載らなくなった熱田港……明治18年(1885)
 浚渫を進めても「二〜三百トンの船舶を入れるのに尚困難」であり、大型船は四日市港に入り、貨物は小型船や艀に積み替えて、熱田や堀川へ運ばれた。

 明治17年(1884)から20年(1887)の『農商務統計表』に、港湾出入船舶数が記録されている。
 17年(1884)版の尾張地方では熱田・半田・亀崎港が掲載され、熱田港には汽船の出入は全くなく、帆船と日本形船だけである。入出港合わせて6,394隻で積荷価格は51万円余となっている。この年の四日市港は、汽船だけでも842隻の入出港があり、全種類では7,627隻の船が出入りし、積荷価格は1,083万円余で熱田港の21倍である。
 翌18年(1885)版からは熱田港の記載はなくなり半田・亀崎港だけになっている。熱田港は統計からも除外される港であった。

◇港の体をなしていない熱田港
 明治36年(1903)刊行の『名古屋案内』は、築港以前の熱田港の様子を次のように書いている。
 「世に名古屋の海門を以て目せらるゝ熱田港は、從來遠浅にして船舶を容るゝに足らざるを以て、入港船は常に熱田町地先なる海岸を距る約一里の處、保田沖と称する邊に碇繋せりと雖ども、一として港湾の設備あるなく、南東僅かに知多半島の自然の障壁を以て波濤の襲來を免るゝも、南西の方は一の防波堤をも有せざるが故に、常に風波の厄に遭ふこと多く、且つ庄内川の流砂は、絶へず此海に沈滞して、漸次水深を減ずるに至りしかば、小形の船舶も猶ほ深く保田沖以北の海に入るを得ず、
 爲めに積量の巨大なる船艦の如きは、皆な三重縣四日市港に寄泊し、名古屋地方に陸揚げすぺき貨物は、艀船其他の方法により、更に同地より輸送せらるるを以て、其不便なること少なからざるは勿論、爲めに名古屋の商工業に損失を蒙らしむる、頗る多大なるものある。」

 また『名古屋港史』には次のように書かれている。
「築港当時、この堤防(作良新田と熱田前新田の堤防)から一〇〇mの間は葦が密生した広漠とした干潟で、その先五〇mが潮干狩に好適な浅海となっていた。その前面が水深五mほどの保田沖で、小型汽船が停泊できるところであった。」




名古屋港の建設

◇第1期工事の実施……明治29(1896)~43(1910)年度
 明治29年(1896)、県によりいよいよ熱田築港工事が始まった。43年(1910)度までの15年計画の大工事である。

 最大3,000トンの船が入港できる港を築造することとし、東西の防波堤を築いて風波を防ぐとともに天白川と庄内川からの土砂が港内に滞積するのを防止する。港内を浚渫して幅20間(36m、後に40間)水深18尺(5.4m)の航路を造るとともに、水深23尺(6.9m)の船溜には1,000トン以上の船6隻と500トン以上の船4隻が碇泊できるようにする。
 また浚渫土により、1~5号地を築くとともに、2号地中央には長さ70間(127.4m)、幅が47尺(14.1m)の鉄桟橋を設け、灯台や上屋などを整備するという内容である。



「名古屋港第一期工事」
 『名古屋港史』付図

◇反対意見 ロゼッタ丸入港で静まる……明治39年(1906)
 全ての県民が賛成していたわけではない。港を造って本当に利用があるのか、これまでとは水や海流の流れが変わり悪影響が出るのではないかなど、激しい反対もあり、工事関係者には罵詈誹謗が浴びせられたという。

 情勢が変わったのは明治39年(1906)の「ろせつた丸」(3,875トン)の入港だ。巡航博覧会を行っていたろせつた丸は、武豊港のあと四日市港に向かう予定だったが、工事関係者の要請で建設途上の名古屋港へ入港する事になった。熱田の海では見た事もない大きな船が入港する事で大きく風向きが変わったのである。

◇世界に開かれた港港場 開港場指定……明治40年(1907)
 明治40年(1907)6月に熱田町が名古屋市へ編入され、10月に熱田港は名古屋港に改称された。

 この年11月10日に開港場に指定され直接外国との貿易ができる事になった。
 23・4の両日、1・2号地で来賓1,400人が出席して盛大に開港場指定の祝賀式が行われ、101発の祝砲のなか満艦飾を施した7隻の駆逐艦と9隻の商船が港の前途を祝った。
 これにより、それまで横浜や神戸経由で輸出入していたのが直接できるようになり、名古屋の商工業の発展を促進した。41年(1908)から45年(1912)にかけて北支・台湾・北清の各定期航路が次つぎと開かれ、名古屋港は海外への玄関口になったのである。


浚渫船 『絵葉書』


鉄桟橋側面 『絵葉書』

鉄桟橋正面 『絵葉書』




交通機関整備と拡張工事
◇交通機関などの整備……明治43年(1910)~
 明治41年(1908)に1~4号地の埋立も完了した。まだ陸の孤島なので、県の機関や水上警察署・名古屋税関・船会社などは熱田の神戸町付近にあり、この年の築地の人口は、西築地が5戸で15人、東築地が2戸で3人であった。

 43年(1910)3月になると名古屋電気鉄道の熱田駅前から築地口までの路線が開通し、7月には熱田電気軌道の熱田神戸橋東から東築地間も開通して、交通の便が改善された。
 また、臨港線の建設がが41年(1908)から始まり44年(1911)に完了した。線路は鉄桟橋の上まで敷設され、舟運と鉄道輸送の積み替えの便が図られている。

 交通が便になるとともに人口が増え、大正元年(1912)には西築地が84戸で390人、東築地が40戸で148人になっている。


『名古屋港及新田図』 明治44年
◇引き続いて拡張工事
 明治43年(1910)に15年の年月をついやして第1期工事が完了したが、この地方の産業は予想を超えるスピードで発展しており、4~5,000トンの船が次々に入港し手狭になっていた。

 このため引き続いて第2期工事が始まり、さらに第3期工事が行われ、昭和13年(1938)に第4期工事が完成した時には、航路の幅が90間(164m)~120間(218m)で水深は30尺(9m)、同時に66隻の汽船が停泊できる日本有数の巨大な港になった。

 輸出額では大正12年(1923)に門司港を抜き、神戸・横浜・大阪に次ぐ港になっていた。名古屋の産業と港は相互に刺激し合いながら共に大きく成長したのである。


『大正昭和名古屋市史』




戦災と復興 そして大名古屋港へ
◇戦災と地震……港は麻痺状態
 太平洋戦争が激しくなり制海権が失われると入港する船も減り、昭和19年(1944)はわずか434隻になった。この年の12月に東南海地震が、翌20年1月には三河地震が発生した。
 この被害に加えて米軍の空襲も激しくなり港湾施設は甚大な被害を受け機能は麻痺状態に陥った。

◇進駐軍上陸・復員者帰還
 敗戦後の20年(1945)10月25日に進駐軍の兵士200名が上陸したのをかわぎりに、以降、名古屋港から上陸あるいは帰還した米兵は10万人に及んだ。
 21年(1946)3月には復員船受入港に指定され、22年(1947)1月までに105隻の船で259,589人の軍人・軍属・一般人が帰還してきた。

◇復興と発展
 21年(1946)9月に名古屋港は、横浜港・神戸港とともに国際港に指定され、10月1日に名古屋復興祭協賛会港まつりが行われている。
 11月に名古屋港改良5か年計画が決定し、本格的な復旧・改良工事が始まった。

 26年(1951)9月には愛知県と名古屋市により特別地方公共団体の名古屋港管理組合が設立され、港の管理運営を行うようになった。
 その後、時代の要請に応じて整備と拡張が繰り返され、現在は4市1村(名古屋市、東海市、知多市、弥富市、飛島村)にまたがる巨大な港になっている。令和2年の取扱貨物量は日本の港で一番多く、2位の横浜港の1.8倍である。



『名古屋港図』 令和4年





『港区全図』 昭和30年




親しまれる港づくり

 名古屋港は横浜や神戸と異なり、都心と港が大きく離れている。また、荷役機能が中心の港であった。このため、以前は市民が訪れるのは学校の社会見学などが多かった。

 昭和46年(1971)になると地下鉄が名古屋港まで開通し、都心からの便が非常に良くなった。
 このような背景のなか、53年(1978)に「親しまれる二号地ふ頭再開発計画」がつくられ、再整備が始まった。
 55年(1980)に中央・東ふ頭の間を埋めて一体にし、名称を公募してガーデンふ頭と名付けられた。中央に緑地広場が設けられ植栽や展望台などもあり港の風情を楽しめる施設になっている。59年(1984)には帆船をイメージしたポートビルが完成した。内部は休憩所や売店、海洋博物館、展望台などが設けられ港のランドマークとなっている。60年(1985)にはガーデンふ頭の西側に旧南極観測船の「ふじ」が係留保存され、南極に関する博物館となった。平成4年(1992)になると名古屋港水族館が完成し、多くの親子連れが訪れる場所になっている。


昭和51年 『ハンディマップ名古屋』


昭和58年 『最新名古屋市地図』


現代 『スーパーマップル』




港湾荷役……仲仕からコンテナなどへ
◇荷役は仲仕だより
 昔の荷役は人力に依るところが大きく、多くの人が港で働いていた。
 労働者は仲仕と呼ばれ、舟溜まりに係留されている本船から艀へ荷物の積み下ろしをする沖仲仕、岸壁で本船や艀の荷物の積み下ろしをする浜仲仕(陸仲仕)がいた。扱う荷により石炭仲仕や材木仲仕と呼ばれることもあり、材木仲仕は筏師とも呼ばれた。

 入港する船の数や取り扱う貨物の量は日々変動する。このため仲仕には常傭の他に臨時雇用のものもいて、リスクの受け皿になっていた。大正6年(1917)には沖仲仕は常傭が210人、臨時が300人、浜仲仕は200人位、合わせて710人ほどが荷役を担っていた。名古屋港の発展とともに急速に仲仕の数が増え、戦前最盛期の昭和12年(1937)には予備人員も入れると5,400人ほどが働いている。

◇仲仕の不足 → 機械で荷役
 戦後の高度成長期になると更に多くの仲仕が必要になり、昭和43年(1968)には8,830人が必要とされたが、港湾労働者として登録されているのは7,687人しかなく、仲仕は大幅に不足していた。
 あらゆる産業で労働力が求められている時代であり、人手に頼る荷役は限界がある。このため、輸送や荷役の近代化が進められた。40年代前半(1965~)になると、貨物のコンテナ輸送が始まり、専門埠頭の建設やサイロ施設の増大、荷役機械の近代化などが進められた。また、沖で本船から艀に積み替える沖荷役が減り、本船を埠頭に接岸して行う接岸荷役が増加したことも大きな変化である。

 このような近代化が図られた結果、大きく省力化された。
 それまで、鉄スクラップの荷揚げは1万㌧クラスの船だと、徹夜作業を連続しても1日に80~100人が働いて1~2週間かかっていたのが、大型マグネットによる機械荷役になり1日で完了するようになっている。
 木材も以前は本船から海面に投下し、筏師が筏に組み船で引っ張って運搬していたのが、クレーンで本船からトレーラーに積み替えるように変わっている。


昭和40年頃 木材を海へ投下


昭和40年頃 筏に組んで貯木場へ


現代 クレーンでトレーラーへ




名古屋港 輸出品の変遷


















※元データ:『名古屋港開港百年史』






 2023/06/11