かつて名古屋は全国有数の繊維工業が盛んな地域であり、とりわけ北区には多くの紡績・織物工場があった。
 織物には様々な色や模様をつける。染めた糸を織ったり、織りあがった布を染めたりして色や模様をつくりだすが、いずれにしても染色によって鮮やかな色が生まれてくる。染色は実用品としての布を、生活にいろどりを添え、使う人の個性を主張する布へと変身させる、繊維産業の中でも重要な工程である。

 きれいな水 染色業が発達
    最初は江川・堀川周辺
 染色の多くは水に溶かした染料を布に染込ませて定着させ、水洗いをして完成する。
 染色には大量の軟水が必要であり、染色業は良い水が得られるところで発達した。明治の終わりごろまでは、水が得やすく旧武家屋敷の広い土地があった堀川の西や江川周辺で染色業が発達した。堀川の朝日橋あたりでも染物をすすぐ風景が見られたと古老はいう。


    良い水を求め 黒川・御用水へ
 明治も終わりに近づくと、染色工場の増加や人家の密集により水質が悪化してきた。このため、きれいな水が流れる早朝や深夜に川へ入って洗わなければならず、きれいな水を求めて染色工場は堀川上流(黒川)や御用水沿川に立地するようになってきた。

 第一次世界大戦(1914~8)をきっかけに日本の繊維産業が大きく発展するとともに、この地域の工場も増え染色工業地帯になっていった。

 御用水や黒川の近くには、京染屋とよばれる多色染めの工場が建ち並んでいた。川の流れに膝までつかって、染め上げた長い布をすすいで糊をおとし、なかには御用水の水を工場の中に引き込んでいる所もあった。工場には染め上げた長い反物を乾かすための高い干場があり、風にひるがえる鮮やかな色がこの地域ではいたるところで見られた。

 
城北における染色漂白工場分布図
『大正昭和名古屋市史』
   伝統工芸品 名古屋友禅黒紋付
 かつてはたくさんの染色工場が建ち並んでいた。しかし昭和45年(1970)頃から新興工業国の安い繊維製品が流入するようになり、為替が変動相場制になって輸出競争力も低下し、繊維産業は急速に衰退していった。それと共に染色産業も、水質の悪化もあいまって減少してしまった。
 今では名古屋友禅と黒紋付染が伝統的工芸品に指定されている。現在、黒紋付が21名、手描友禅が10名、小紋・型友禅が7名、合わせて38名が伝統的な手法や技術を伝えて生産に励んでいる。

 御用水は埋め立てて街園に整備され、黒川での水洗風景も見られなくなった。わずかに、桜まつりなどの時のイベントとして、名古屋友禅の水洗いが黒川で行われ、過ぎし日の風景をしのばせる。
 
     

  2004/07/13・2021/02/01改訂
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