堀 川 西 岸
造船業密集地区
 新堀川合流点から紀左衛門橋にかけての堀川西岸は、たくさんの小型船が係留されて他では見ることができない景観になっている。川岸の建物の中に引き上げられた船も見られるが、これは船の新造や修理をする造船所だ。今はずいぶん数が減ったが、このあたりは名古屋きっての造船業集中地区だったのである。




◇戦前……21戸が造船業
 戦前に編纂された『大正昭和名古屋市史』には、白鳥橋から港新橋の区間は「小造船工場が一列にならび、百噸級より小和船に至るまでの船舶を盛んに造っている。」と書かれている。この沿岸地域の業種別戸数は、総戸数38戸のうち21戸が造船業であった。
 昭和5年(1930)から始まった恐慌により商工業の組織化が進んだが、このときに名古屋造船業組合が結成されている。

◇昭和24年……10業者が造船業
 『名古屋南部史』に昭和24年(1949)の造船業者と関係業者の一覧表がある。
 34業者が掲載されているが、区単位で集計すると熱田区と港区がそれぞれ12業者で一番多い。
 町名単位では熱田区千年町が10業者で群を抜いて多く、次いで庄内川河口近くの中川区下之一色町が4業者、天白川河口部の南区鳴尾町が3業者、港区築三町が3業者で、他は皆1業者である。
 この頃も堀川下流部の千年町は名古屋の中でも造船やそれに関係する業者が突出して多い地域であった。

◇小規模な造船業者ばかり
 名古屋の造船業は昭和16年(1941)頃まで木造船の建造であり、造船業者の規模は小さくてドック(船渠)もない状態であった。
 明治40年(1907)に名古屋港は開港場となり海外航路を行き来する大型鋼鉄船も多く入港するようになったが、名古屋港にはそのような船を建造や修繕できる施設はなかった。このため修繕が必要なときは曳舟で京阪や京浜地区へ移送していた。名古屋で近代的な造船業の発達が遅れたのは、鉄鋼業の発達が遅れていたのが一因である。




昭和58年頃の様子
『航空住宅地図』昭和58年に加筆

◇7号地……名古屋造船誕生
 このような問題を抱えるなか、愛知県が7号地(港区昭和町・大江川の南)築造にあたり、昭和10年(1935)から1万㌧級の建造ができる大型ドック(船渠)の建設を開始し15年(1940)に完成した。
 愛知県による経営は難しいため、造船技術を持つ浦賀船渠(現:住友重機械工業)とこの地方の鉄鋼会社である大同製鋼(現:大同特殊鋼)の出資により名古屋造船(株)が翌16年(1941)に設立され経営を担う事になった。県が築造したドッグと隣接地の大同機械製作所の工場を買収し営業を始めている。これにより名古屋でも大型鋼鉄船の新造と修理ができるようになった。昭和34年(1959)に来襲した伊勢湾台風では、名古屋造船のぎ装岸壁に係留されていた名和丸が流走し被害を拡大している。

 その後、名古屋造船は昭和39年(1964)に石川島播磨重工業〔現:(株)IHI〕に吸収合併されて名古屋工場となった。その後、48年(1973)に100万㌧ドックと呼ばれた知多(愛知)工場が新設されると名古屋工場は陸上機械や鉄鋼部門の工場に変わった。
 しかし53年(1978)の第二次石油ショックで造船不況が深刻化し、韓国や中国の造船業との競争も激しくなっていった。知多(愛知)工場も造船から海洋構造物などの製造に変わり、名古屋工場は平成8年(1996)に、知多(愛知)工場も30年(2018)に閉鎖されている。




 2023/04/05