名古屋の台所
『名古屋市実測図』 明治43年
熱田の魚市場
 堀川に架かる大瀬子橋の上流左岸は、かつて魚市場があったところだ。
 藩の保護を受けて繁栄し、城下だけでなく美濃や信濃まで魚介類を出荷していた。明治以降は名古屋市街や下之一色などにも市場ができたが、名古屋の発展や鉄道輸送の便により熱田の魚市場は繁栄を続けていた。
 太平洋戦争の配給制により公営の中央卸売市場の建設が始まり、戦後に開業するまで、堀川岸のこの地は名古屋の台所であった。

    江戸時代の魚市場   明治になり各地に魚市場   中央卸売市場開設



江戸時代の魚市場
  ◇戦国時代以前から存在
 熱田は漁師町なので、水揚げした魚を売買する魚市場が戦国時代の享禄年間(1528~32)以前に存在し、神戸(ごうど)市場と呼ばれていた。織田氏が淸須に居た頃も、熱田から魚を供給したという。

◇藩の保護で繁栄
 名古屋開府により市場は木之免・大瀬子に移り、東西4戸ずつ計8戸の問屋(荷受・集荷業者)があった。寛永(1624~44)の頃になると問屋株が定まり、権左衛門・仁左衛門・三右衛門・甚三郎・又三郎・七左衛門の6軒があった。安政年間(1854~60)になると、仁左衛門が廃業して5軒になっている。

 藩の保護を受け、熱田の魚市場は非常に繁栄した。城下には川魚を扱う市が魚の棚(五條橋の一本南の東西筋)に、乾塩魚の市が元禄15年(1702)から船入町(現:名駅五)に開かれただけで、生の海産魚介類は熱田に限られていたためである。

◇遠隔地からも入荷
 寛永年間(1624~44)には魚問屋が漁師に資金を貸すことで集魚の活発化を図るようになった。天保3年(1832)頃になると買い回り船で各地の漁師から魚を集めるようになり、その後、高速で魚を運ぶ押送り船も使われるようになった。また、三州吉田(現:豊橋)から徒歩などで魚介類が運ばれてきたという。
 『張州雑志』には遠方では阿波・摂津・若狭・長門からも塩魚などが入荷すると書かれている。魚市場で売買された品々は、名古屋や尾張国内だけでなく美濃や信濃まで徒歩で輸送されていた。

 今も漁港に行くと小さな産地市場があり消費地市場に向けて出荷しているが、熱田の魚市場は前浜の魚介類だけでなく広範囲の品を集めて売買しており、産地市場と消費地市場を兼ねた大規模な市場であった。

◇朝夕2回の魚市
 市は毎日、朝と夕の2回立ち、活発な取引が行なわれた。
 その様子は『尾張名所図会』に「擔夫群をなして雷同するかまびすしさ、譬ふるにものなし」と書かれている。
 同書ではこの地の名産として、鯔魚(なよし=ボラ)・藻魚(もいお=アイナメ)・万魚(よろず=不明、サヨリに似て太く長い魚)・牡蛎(大野が産地)・蛤・蜜丁(ちんみがい=サルボウガイ)・鱸(すずき、知多郡産)・棘鬣魚(たい=タイ、師崎・日間賀島など産)・喜子魚(きす=キス)・箭簳魚(やがらいお=ヤガラ)・鰺(アヂ)・海蝦(しまえび=伊勢エビ、名古屋では志摩蝦とよんだ)を挙げている。
 また海藻類では、海藻(おご=オゴ、刺身のつまなどに使用)・海蘊(もずく=モズク)・染海松(そめみる=ミル?、現代は食用にしないが、古代は食用で貢租にも使われた)の記載がある。


夕上り魚市 『尾張名所図会』
◇熱田の主要産業
 市場の取引には問屋の他に仲買と小座がいた。仲買は熱田在籍者に限られ、江戸時代の数は不明だが明治37・8年頃は70名いた。小座も熱田在籍者に限られ、明治末頃は1,100名余おり、雇い人なども加えると2,100余名に及んだ。



明治になり各地に魚市場
◇祢宜町・下之一色にも問屋
 明治になると問屋業が自由化され、35年(1902)9月に熱田の魚市場で働いていた人や小座(小売商人)20人が、祢宜町(現:名駅南一)に鮮魚などを販売する祢宜町肴市ができた。ここで扱う商品は熱田市場で仕入れた物で、規模も熱田よりずっと小さかった。
 41年(1908)になると下之一色村に魚商組合が問屋を、漁業組合が共同販売所を開き激しい販売競争を始めた。


『尾張名所図絵』 明治23年
◇西柳町・船入町に市場
 明治42年(1909)に愛知県は市場取締規則を制定した。
 これにより市場を開設する者は県の許可が必要となり、衛生面の配慮や新たに開設する市場は道路での営業ができないなどの規制が加えられた。

 規則制定により祢宜町肴市の継続が難しくなるなか、奥田正香などにより魚や青果などを扱う中央市場(株)が設立され43年(1910)に西柳町で開業し、肴市関係者は中央市場で魚の売買を行うようになった。
 また、下之一色でも大正元年(1912)に関係者により下之一色市場が発足し、大正4年(1915)には、船入町(納屋橋北西〕で名古屋水産市場(株)が魚市場を開設している。

 名古屋の発展や鉄道の開通などにより、熱田魚市場の取引額は年々増加した。明治30年(1897)は47万円余、32年(1899)は65万円余、35年(1902)は77万円余になっている。


『名古屋案内』 明治43年


『愛知県写真帳』 大正2年

『名古屋の100年』 大正末期



中央卸売市場開設
◇公営市場 反対
 大正11年(1922)に市は、市民生活の安定を図るため食品市場を公営する計画を発表した。
 これは中央卸売市場(株)と名古屋水産市場(株)を買収して公営市場を開設する内容であったが、不要論が強くて実現できなかった。

 翌12年(1923)に中央卸売市場法が公布され、市は13年(1924)に名古屋市中央卸売市場計画概要を市会に提出し、本会議で可決された。市は昭和2年(1927)に調査委員会を立ち上げて検討を進めたが、熱田魚市場や青果市場関係者の反対が強く頓挫し、9年(1934)には調査費の追加予算が市会で否決されている。

◇太平洋戦争で開設へ
 実現するきっかけとなったのは、太平洋戦争の物資不足である。
 昭和16年(1941)に物資統制令が出され配給制度が強化されていった。それにより魚・青物市場も荷受と配荷を一元化している。
 17年(1942)になると卸市場予算が市会で可決されて、白鳥貯木場の北に隣接する広い土地に建設される事になった。19年(1944)に建設が始まったが、20年(1945)の空襲で焼失してしまった。

 戦時下では県食品市場取締規則により市場を開設していたが、昭和24年(1949)に中央卸売市場法による中央卸売市場本場が開業した。取り扱うのは水産物・青果物・漬け物である。
 これにより名古屋開府以前からの永い歴史を持つ熱田の魚市場は、姿を消すことになった。





 2022/02/26