作良新田総鎮守
八 幡 神 社
 千年八幡神社は、作良新田が開発されたときに総鎮守として徳川家から下賜されたという由緒の神社である。
 境内には忠魂碑とともに、熱田大空襲の時に犠牲となった一般住民の慰霊碑も建っている。空襲時にこの附近がいかに大きな被害を受けたかを、今に伝えている神社でもある。



千年八幡神社

 この神社は由緒書によると、元は尾張徳川家の下屋敷(『名古屋市史』では御深井の庭)に鎮座していたものを、天保8年(1837)に熱田築地前新開(作良新田)の総鎮守として下賜されたとのことである。なお、この年は作良(さくら)新田が開発された年である。
 当初は今より20間(36m)南の地にあったが、たび重なる水害で明治初期にここへ遷座しており、旧社格は村社である。
 祭神は誉田別命(応神天皇)で、境内社に多度社と秋葉社がある。

 境内には昭和11年(1936)に建立された「開拓壹百年」碑が建っている
 安政大地震(安政元年、1854)、万延元年(1860)と明治6年(1873)の暴風雨、明治24年(1891)の濃尾地震、昭和20年(1945)の熱田大空襲、34年(1959)の伊勢湾台風と何度も大災害に遭いそのたびに復興してきた。
 本殿が高い石垣の上に設けられているのは、海に近く過去の水害の記憶があるからであろう。現在の社殿は昭和54年(1979)の改築である。



 境内にはいくつもの石造物がある。
 手水鉢は「天保十二年八月吉日」の文字があり、1841年に奉納されたものだ。この地へ徳川家の下屋敷から遷座して4年後の古いものである。
 鳥居の横に建つ大きな常夜灯は、明治24年(1891)に関戸守彦と伊藤次郎左衛門が寄進したものだ。作良新田は藩が開発したが、名古屋の豪商である関戸・伊藤・内田の3名に払い下げられ、幕末に内田家の持分は他の2家に譲渡された。常夜灯が建てられた頃のこの地の大地主2名が奉納したものなのである。
 また、「作良堤」と彫られた石柱が建っている。この地は作良新田の北堤防だった場所だからである。






慰霊之碑
 本殿右手奥に、大きな忠魂碑に並んで、一回り小さな慰霊之碑が建っている。
 昭和20年(1945)6月9日の熱田大空襲で亡くなった近隣の一般住民数10名を慰霊するために、昭和53年(1978)に建立されたものである。戦死した兵士を弔う忠魂碑はあちこちの社寺で見かけるが、一般住民の慰霊碑は珍しい。

 正面上部に「慰霊之碑」と刻まれ、下部に次の言葉が彫られている。
 「第二次世界大戦終決眞近かの昭和二十年六月九日 当千年を襲った大空襲により 罪なき住民数十名 悲惨にも爆死せらる
 戦爭の残酷さを憎み 永遠の平和を念願し この人柱となられた方々の冥福を祈りつゝ こゝに碑を建つ
  昭和五十三年八月十五日」


 裏面には爆死者氏名として、48人の名が彫られている。男性が17名、女性が31名で女の方が多い。この時代、男の多くは兵士として戦場に送られ、あるいは徴用などで働きに行き、留守を守っていた女性が多く犠牲になっている。
 裏面下部には建立関係町名として千年六丁目始め11の町名が記載されている。



忠魂碑
 大きな忠魂碑は、正面に「忠魂碑 陸軍大将井上幾太郎書」と彫られている。
 裏面上部中央に「軍人勅諭下賜五十年記念」「昭和七年八月 帝国在郷軍人会千年分会」の文字が見られる。昭和7年に在郷軍人会が建立したものだ。併せて「日露役戦死者」として3名の名、「満州事変戦死者」として1名の名が彫られている。

 ただし、この碑は昭和53年(1978)8月15日に「慰霊之碑」建立に併せて「関係町内一同」により再建されたものだ。
 このため碑の裏面下部には、昭和7年(1932)に建てられた碑にはなかった「第二次世界大戦戦没者氏名」が彫られている。その数は実に89名に及ぶ。住民の数が増えていたことにもよるが、日露戦争の3名の30倍もの数である。
 戦場に送られて亡くなった兵士が89名、そして横に建つ「慰霊之碑」にある一般住民爆死者数は48人である。いかにこの地域の一般人の犠牲が多かったのか、改めて考えさせられる。

 昔も今も戦争は兵士だけではなく、普通の人々にも大きな犠牲を求めるものである。






 2023/04/05