井戸のぞきで知られる
高座結御子神社
 高座結御子神社は、広い境内に鬱蒼と茂る木々に囲まれた閑静な神社である。
 子供の無事な成長を祈願して境内にある井戸をのぞく「井戸のぞき」で有名だ。

    はるか昔からの古社   祭神についての諸説   境内の社
    毘沙門参りの賑わい   井戸のぞき   丑の刻参りに御利益?



はるか昔からの古社
 江戸時代は田畑に囲まれた静かで眺望のよいところであった。
 『四編の綴足』には
 「旗屋丁より二三丁東へ入れば。高座結の宮といへるあり。祭神は仲哀天皇なるよし。此所一面に田を見はらし。雲間に猿投山逸然として見へ 其外の山々十重廿重に見ゆる」
 と高台で遠くの山々が望まれる様子を記録している。

 荘厳な雰囲気の神社だが、創建の時期や祭神がはっきり解らない神社である。
 この神社は熱田神宮の摂社で、ホームページには「尾張の祖神・高倉下命(たかくらじのみこと)をお祀りし、創祀は熱田神宮とほぼ同年とされる悠遠な古社です」と書かれている。
 『続日本後紀』(しょくにほんこうき)の承和2年(835)12月の記録に『尾張国…(中略)…高座結御子神奉預名神並熱田大神御兒神也』と書かれている。
 また、平安時代に編纂された『延喜式神名帳』にも掲載されているので古くからの神社なのは間違いない。

 社殿は信長が造営し、その後元和4年(1618)に蜂須賀家政(現在の江南市出身で徳島藩祖)が修理し、貞享3年(1686)に改造が行われたのが現在残されている。

『尾張名所図会』
たくさんの境内社がある



祭神についての諸説
 祭神は今では高倉下命ということになっているが、過去の文献には他の神を祀っているとする記録が残されている。
 『尾張名所図会』『金鱗九十九之塵』『尾張徇行記』などには、「本社 祭神 仲哀天皇」と書かれている。
 また、『東熱田村誌』(明治13年、1880)には「若帯日子 帯中日子 息長帯日売ノ三神ヲ配祀シ」となっており、いずれも現在の祭神とは異なっている。

 『名古屋市史』には、さらに多くの説が紹介されている。
 成務天皇(『熱田宮略記』)、成務天皇と仲哀天皇の相殿(『尊名記集説』)、高倉下命(『神宮祭神記』)である。



境内の社
 
 江戸時代の文献や『尾張名所図会』の絵を見ると、昔は非常に多くの境内社があったが、現在は4つの境内社が祀られている。

 拝殿の右手に鎮座するのが鉾取(ほことり)社だ。
 境内の説明板には鉾取神(ほことりのかみ)が祭神と書かれている。鉾取神とは聞き慣れない神だが、大正時代に出版された『名古屋市史』には「祭神は武内宿禰とも、天鈿女命(あまのうずめのみこと)とも、神功皇后、武内宿禰二座ともいひて、詳ならず」と書かれている。

 
 南参道と西参道が交差するところにあるのは、御神井と御井(みい)社だ。祭神は御井神(みいのがみ)とのことである。

 聞き慣れない神だが、『尾張徇行記』には、「水霊を祀り水門神と名付けている」という趣旨のことが書かれ、「尾張名所図会」には水門神(みとのかみ)祠の祭神は速秋津(はやあきつ)神と書いている。速秋津神はウィキペディアによると「伊邪那岐(いざなぎ)命・伊邪那美(いざなみ)命二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称」とのことである。

 
 本殿の左手、赤い鳥居の脇に鎮座するのは新宮(しんぐう)社で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祀られている。

 
 赤い鳥居の奥に進むと高蔵稲荷社がある。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)である。
 境内の説明板では「この稲荷には秀吉が幼い頃、母に手を引かれて参拝したとの言い伝えがあり、太閤出世稲荷と呼ばれている。」とのことである。




毘沙門参りの賑わい
 江戸時代に一番賑わったのは毘沙門(びしゃもん)参りの時である。
 神仏混淆だった昔は本地堂があり、弘法大師が作ったといわれる毘沙門天が安置されていた。お堂は貞享年間(1684~8)の初めに取り壊されて、像は社人(神職)の家に移された。

 毎年1月3日だけ井戸の北にある御供所で開扉されて参拝することが許され、未明に開扉され四時(とき)(午前10時)に閉扉された。
 早く参拝すると御利益が大きいとされ、夜明け前から訪れる人もあり、城下からの参拝もあって非常な賑わいとなった。このため開扉は午後まで延長されるようになった。
 この日は境内に刻みたばこと飴で作られた小判を売る店がでた。この小判型の飴を、その年に得たいお金の数ほど買って一人で食べると願いが叶うと言われた。


熱田高藏宮 毘沙門参
『尾張年中行事絵抄』



井戸のぞき
 現在、高座結御子神社といえば子供の無事な成長を祈る井戸のぞきで知られている。
 しかし江戸時代の文献には毘沙門参りについて種々の記録が見られるが、井戸のぞきの記載は見当たらない。明治になり神仏分離が行われて毘沙門参りがなくなり、新たに井戸のぞきが始まったのか、あるいは従来から一部で行われてきた風習が一般化したのかもしれない。


 昭和27年(1952)刊行の『名古屋南部史』には、
「境内の井水を汲み取りて小児に飮ましむれば夏病みしないというので、現今でも例祭日は参詣が多く大賑いを呈する」
 と書かれており、井戸を覗くのではなく井戸水を飲んで無事な成長を祈願する風習だったようである。
 衛生面の懸念などから、飲むのではなく覗くように変わったのではなかろうか。




丑の刻参りに御利益?
 『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)の宝永7年(1710)6月のところに、新妻が入って離縁された旧妻が丑の刻参り(午前2時頃に呪いをかけるため参拝すること)をしたところ、新妻が狂ったという話が載っている。

 「頃日高倉の社へ、夜之丑の時参り有。
 是は桔梗屋半右衛門悪性にて、妻を持ながら伝馬町辺に而振袖と馴染、とかく妻を出して、此女を納んとかたく約す。而因循(いんじゅん、ぐずぐずして煮え切らないこと)たり。女恨て白帷衣念珠を手にかけ、吾井の中へ身を抛んとせしを、見出され本意を遂ず。男此深志にいよいよめで迷ひ、とかく妻に無理を申かけて離別し、此女を納而妻とす。
 前妻大に怒り、額に小鏡をあて、頭にわたをいたゞき、丑時参す。七日に満て、其しるしにや当妻狂ひ口走ると云々。」




 2021/07/06