船乗りの信仰を集めた
住吉神社
 住吉橋の北東たもとに住吉神社がある。堀川は名古屋城下と熱田の浜を結ぶ艀輸送が盛んで、熱田の浜は全国の津々浦々を巡る廻船と連結していた。住吉神社は舟運の盛んな堀川岸に、航海の安全を祈って建立された神社だ。


    江戸時代半ばに勧請   船乗りで賑わう例祭   名古屋俳壇の雄三人「三吟塚」



江戸時代半ばに勧請
  ◇最初は地蔵堂の中に祀る
 住吉神社は『尾張徇行記』には地蔵堂の境内にある社として記載されている。
 昔旗屋町にあった地蔵堂が正徳元年(1711)に東輪寺がもっていた熱田道(美濃街道 佐屋街道)の東の土地へ移転した。神社の由緒書では、享保19年(1734)に航海の安全を祈って大阪の住吉神社から住吉神をここに勧請した。その時は地蔵堂の中にお祀りしている。

◇廻船の荷主たちが社殿を造営
 その後、宝暦12年(1762、『尾張徇行記』では11年)に熱田道の西側へ地蔵堂を移転し、東輪寺の柏禅和尚を開基とした。
 その頃、名古屋に極印講という大阪廻船の荷主たちで造った組織があり、住吉神の社殿を創建している。その後、江戸廻船も盛んとなりその講中もこの神社を崇敬するようになった。

 祭神は海上守護の底筒男命(そこづつのおのみこと)・中筒男命(なかづつのおのみこと)・表筒男命(うわづつのおのみこと)・神功皇后の4柱である。
 境内社として、人丸社・天神社・津島社・秋葉社・住吉霊社・山賀稲荷社がある。
 なお、勧請当初に住吉神を祀った地蔵堂は、1840年過ぎに編纂された『金鱗九十九之塵』には「此堂門前に有しが今は見えず」と書かれ姿を消している。

 今の住吉神社は八熊通の堀川近くから境内に入るが、江戸時代の絵図を見ると熱田道に門があって、そこから西ヘ参道が延びており、広い境内の神社であった。


『尾張名所図会』



船乗りで賑わう例祭
 
 例祭は3月15日と8月15日で、お神楽が奉納された。
 8月の祭風景を『尾張年中行事絵抄』は次のように記録している。
 「今宵、神楽あり。此社は、船乗どもの信仰多くして、献燈数多あり。堀川の月見ぶねに、一しほ賑々し。むかしは小社なりしが、宝暦(1751~1764)の頃此地に一寺を建て、東輪寺の支院となる。当社此時より神殿を改め造り、次第に結講をつくせり。」

 今も境内には廻船問屋や荷主、船頭などが奉納した石造物がいくつも残され、内海や野間から奉納されたものもある。



尾頭住吉祭 『尾張年中行事絵抄』 

「尾州小早廻船中」奉納

「幸徳丸仙助」など奉納

「名古屋船問屋」奉納

「野間一色村講中」奉納




名古屋俳壇の雄三人 「三吟塚」
 境内に享和3年(1803)に建立された「三吟塚」があり、次のように刻まれている。
  夜の雪見んと暮雨巷に見せられて
    月と雪と 大地のたらぬ 今宵哉    圃暁
    この芦原に 川千鳥鳴         暁台
    たのみある 一木は松に あらはれて  士朗

 碑を建立したのは青山圃暁である。暁台の弟子であるとともにパトロン的存在であった圃暁が、師の没後12年を記念して建てた。
 飛鳥時代の歌人として名高い柿本人麻呂(人丸)を祀る人丸社、学問の神であり平安時代の歌人でもある菅原道真を祀る天神社があることから、この地を選んで建立したのかも知れない。




 2021/07/04