漁 師 町
『尾張名所図会』
熱 田

 今の熱田の町からは想像できないが、かつては漁師町であった。住民の7%あまりが漁師をしており、堀川岸などに漁船が舫われ、岸辺には網小屋があり、明治になると漁業組合もつくられた。



 
 豊かな漁場である伊勢湾に面した熱田は、はるか昔から漁師の町でもあった。

◇熱田の7%余が漁師
 『東海道 宿村大概張』には漁船が94艘あると書かれている。

 明治15年(1882)には、羽城町は171戸のうち150戸、木之免町は263戸のうち131戸、大瀬子町は447戸のうち33戸が漁民で、合計すると熱田では314戸が漁業で生計を立てていた。

 明治21年(1888)12月末現在では、熱田で捕魚採藻業を行っている専業者は318戸、兼業者は2戸、合計320戸であった。人数では男が537人、女が207人、合計744人である。全業合わせた4,203戸の7.6%を占めており、人数では熱田の人口17,553人から無職業の7,372人を引いた10,181人の7.3%が漁師である。


須賀浦の図  『張州雑志』


『愛知県第一区名古屋并熱田全図』
明治11年
◇漁業組合も結成
 明治27年(1894)になると有志で尾三水産会が組織され、幹事の一人に木之免町の魚問屋である島本権左衛門が就任している。34年(1901)に漁業法が制定されると、翌35年(1902)6月に漁業者と流通業者で愛知郡水産組合が熱田町中瀬に設立され、36年(1903)6月には地域単位の団体である熱田町漁業組合もできている。
 漁船は明治30年頃には肩幅が9尺5寸(2.85m)から1丈(3.03m)ほどの大型船が現れ、その頃から動力船が増えてきた。

 明治後期の主な漁獲物として、鱧(はも)、鰯、黒鯛、エイ、サヨリ、ハゼ、ボラ、ウナギ、牡蛎(かき)、蜆(しじみ)、烏賊(いか)、蟹、海老、シャコなどが挙げられている。また、昭和3年(1928)には熱田でも海苔の養殖が始まり、生産量は少ないが良質の物がとれたという。

◇漁獲の規制も
 地域の発展により漁獲が規制される場所も出来てきた。
 明治24年(1891)に「堀川筋取締規則」ができ、堀川の朝日橋から大瀬子渡船場(現:大瀬子橋)の間では漁業が禁止された。

 大正14年(1925)9月には名古屋港内で打瀬網漁をしていた木之免町の漁師を、水上署が検挙し5日間拘留した。これを聞いた漁民たちが死活問題として県へ陳情しようとしたことがある。
 当時の『名古屋新聞』は次のように報じている。
 「此の事を聞き伝えた熱田在住の漁民300余名と、県下下一色町の漁民500余名は大いに驚き、熱田の漁民約60名、17日正午頃大瀬子町魚河岸の網小屋に集合して寄々協議を重ね、年来港内で漁業をしてきたにも拘らず今後港内では絶対に漁獲が禁止されるとすれば、500(ママ)の漁民は餓死するの外ない。これをこのまま黙過し放任することは出来ぬとて、団結力の強い熱田の漁民が決起して県当局へ陳情に出かけようとしているのを、木ノ免町総代三浦順次郎氏が聞きつけ、問題の穏やかならざるのに驚き、血気にはやる漁民を鎮撫して目下善後策について漁業組合幹部と協議中である。」

 かつては多くの漁師がいた熱田だが、今は漁で生計を立てる人はなくなってしまった。


熱田海岸での漁風景 『熱田社享禄年中〔1528~32〕之古図』





 2022/02/26