風光明媚 俳人が集う
妙安寺(沢の観音)
 堀川端にたつ富春山妙安寺は、臨済宗妙心寺派の寺で沢の観音とも呼ばれている。風光明媚なこの寺は文人墨客に愛され、境内にはいくつもの句碑が建っている。

    江戸初期に現在地へ   境内で興業も   境内の句碑



江戸初期に現在地へ
 寺の歴史は資料によりさまざまで、『名古屋市史』に依れば概略次のような遍歴である。
 妙安寺は元和年間(1615~24)に、助光村(現:中川区)に小庵が建てられたのが開基である。
その後荒廃していたのを、寛文9年(1669)に名古屋の豪商である織田久左衛門が政秀寺の僧江天にはかって現在地へ移転した。

 一方、妙安寺の東の方、沢という所に観音が祀られ「沢の観音」と呼ばれて「熱田四観音」の一つとして信仰を集めていた。しかし荒廃して礎石が残るだけとなっていたので、久左衛門は御堂を建て新たに観音像を鋳造して安置し再興した。

『尾張名所図会』
左の帆船が通っているのは堀川
   延宝5年(1677)になると妙安寺の整備ができたので、翌6年に沢の観音を寺の境内へ遷座したが、その後も旧称である「沢の観音」と呼ばれた。

 また、この寺には蠅生木(はいしょうぼく)という珍しい木が有った。9月頃に実がなるが、実を割ってみると中に蠅の形をしたものがあるのでこの名が付いたという。



境内で興業も
 境内では興行が行われたこともある。
 『金明録』(猿猴庵日記)に、文化6年(1809)の芝居興行が記録されている。露天の小屋掛けなので晴天だけの興行だった。珍しいのでしばらくは賑わったが、後には客が減ってしまった。猿猴庵は「この観音は賑やかなことが嫌いなので、昔から参詣日も設けられていない」と書いている。



境内の句碑
 この地は堀川に面する高台で眺望が良く、多くの文人墨客が訪れた。『尾張名所図会』には次のように書かれている。
 「當山は、近く堀川の流に臨み、遠くは西南無邊の郊野を見渡して、春の曙・雪の朝、いづれも類なき風景なれば、昔より雅客の来遊大方ならず、詩歌俳の題辭も多けれど……」

 今も境内にはいくつもの句碑が残されている。

   
  ○芭蕉の句碑(時雨塚)
 正面……「旅亭桐葉のぬしこころざし浅からざりければ、
       しばらくとどまらんとせし程に」
     「此うみに草鞋すてん笠しくれ」
 裏面……「天明丙午夏五月 名古屋烏雀庵布磧創意
       門人遠江国某某等建之」
 左側面…「此碑はじめ神宮寺にあり。
      故有て未の早苗月(明治4年5月)ふたたび此地に
      移し置きぬ
        再主 正瓢舎龍二 南窓亭乙耳」

 芭蕉が亡くなって92年後の天明丙午(6年・1786)に名古屋の俳人浦野布磧が発案し、遠江(静岡県西部)の人たちが協力して建立した。当初は熱田神宮の神宮寺に建てられたが、明治の神仏分離により廃寺となったので未年(明治4年・1871)に妙安寺へ移転した。
 前書きに出てくる旅亭桐葉とは、熱田在住の芭蕉の弟子である林桐葉のことで、芭蕉は熱田訪問の時に度々桐葉宅に滞在している。

 

○士朗の句碑(2012年撮影 今では表面が剥落して読めない)
 正面……「万代や山の上よりけふの月 」

 井上士朗は名古屋の町医者をし、後には藩医となった人物である。1800年前後の名古屋俳壇の中心人物で「尾張名古屋は士朗(城)でもつ」と言われ、文化9年(1812)に亡くなっている。岳輅が文政元年(1818)に碑を建立した。

 
 
  ○岳輅の句碑
 正面……「満月のそのまま出たり十六夜」
 左側面…「金城南乗西寺十二世之住 権律師源恵□乕足先生
      文政四年辛己五月十一日終□」

 岳輅は乗西寺の住職で俳人。乗西寺は針屋町(現:錦通呉服町交差点北東のブロック)にあった寺で、現在は千種区仲田に移転している。12代目の住職源恵は加藤曉台門下の有力な俳人で「虎足庵」「岳輅」の号を用いた。文政4年(1821)に亡くなっている。

 




 2021/07/02