自然石の地蔵と橋の供養塔
畑中地蔵と七橋供養塔
 新尾頭交差点南東に「畑中地蔵大菩薩」と書いた石柱が建つ一画がある。
中に入ると石のお地蔵さんが何体か並んでいるが「畑中地蔵尊御本体」と書いて矢印まで付いた標識が建っている。その先にはただの自然石が地面から突き出し、それにお地蔵さんと同じように前掛けが付けられている。畑中地蔵は石のお地蔵さんではなくて、この自然石なのである。
 また、敷地内に「七はしくやう 願主魚屋傳吉」と刻まれた石碑が建っている。建てられたのは元文3年(1738)で、元は尾頭橋の東側にあったのが移設されたものだ。

    自然石の畑中地蔵   僧の供養? 橋の供養? 七橋供養塔



自然石の畑中地蔵
 自然石がどうしてお地蔵さんとして祀られているのだろうか。

◇1800年頃は只の石
 『尾張徇行記』には次のように書かれている。
 「鉄山明神社(金山神社)ノ一丁(109m)ホト下、一ノ鳥居ノ東畑中ニ一間(1.8m)四方ノ古冢(つか=塚)アリ、小キ石榎ノ古株アリテ耕作ノ邪魔ニナリシ故、先年畠主ホリ除ントセシカ、其石地下ニテ段々広ク深クホレトモ限リナク、其上怪異アリテホルコトヲヤム、此石ニ祈レハ霊験アリ」

 畑の中にある1.8m四方ほどの塚に、石と榎があった。少し以前に畑の持ち主が取り除こうと掘ったが、掘るほどに石は大きくなり不思議な出来事も起きたので中止した。この石に祈ると霊験があるという記録だ.
     なお畑中地蔵講中が出した由来書によると
 不思議な出来事とは、[掘った農夫の夢枕に異様な人が現れ「我を祭らば願い事を叶えてやろう」と言って消えた]とのことである。また、榎は大正元年(1912)9月1日の大暴風で倒れ、その一部で弘法像をを刻み御堂のなかに安置してあるとのことである。

 『尾張徇行記』は寛政4年(1792)に起稿し、文政5年(1822)に完成しているので、掘り返したのはその少し前頃の事だろう。掘り除けようとした位なので、その頃はまだ只の石だったのが、祈るとご利益があると評判が広まっていった。

◇1800年代中期にはお地蔵様、江戸末期には金山神社のご神体
 その後、天保9年(1838)に編纂が始まった『尾張名所図会』には次のように書かれている。
 「社(金山神社)の南の畑中に大なる石あり。いつの頃よりか地蔵也といひならはして、瘧(おこり)を病もの祈願するに、必しるしあり」

 1800年代中頃になると、瘧(マラリアなどの熱病)にご利益のある御地蔵様になっている。

 さらにその後、安政(1854~60)頃に一応完成し、明治の内容も含む『松濤掉筆』ではさらに発展している。
 「其(金山神社)南に金山地蔵(畑中地蔵)とて是も近年より七月廿四日てうちん灯して参詣あり。線香焼・手水鉢もある様に成。
 其神躰ハ黒岩土中より生立たる物を地蔵と称す。実ハ金山彦之神躰之由。
 犬山の西黒岩村の神祠、神体ハ木曽川堤の上に昔より在来ル黒岩一を以て祭ると同し事にや。
 爰(ここ)に金山神を祀る。初ハ府城石垣の石、此西辺亀屋河戸あたり着岸する石共作り直す。石鑿のつふれを直ス時、金山彦を祀ると云説あれとも、此黒岩に拠時ハ夫より前ニ在之か。」

 江戸時代末期には線香立や手水鉢も置かれ祭礼も行われた。また、この石は金山神社の御神体と言われるようになっていた。
 このことから著者の奥村徳義は、金山神社は元はここに祀られていた。それは、築城の時に近くの瓶屋河戸(現:瓶屋橋付近)で陸揚げした石を加工した石工が鑿を鍛冶屋と同じように自分で補修しており、そのため鍛冶の神である金山神を祀ったとの説を唱えている。



僧の供養? 橋の供養? 七橋供養塔
 境内に移設されてきた七橋供養塔は、いったい何を供養しているのだろうか。

◇人柱となった僧を供養?
 この供養塔について、畑中地蔵講中が発行したパンフレットには次のように書かれている。
 〔今を去ること四百有余年前、尾頭橋のほとりを流れていた川があり、上は黒川に通じ流れては熱田の浜にそそいでいた。
 毎年雨季ともなればこの川は氾濫し加えて海水は逆流、堤防は決壊され橋はことごとく破壊流失の惨を被り、旅人はむろんのこと村民の困惑は其の極に達し言語に絶するものがあった。
 或る日、村人が総出で架橋と築堤工事の際、通りがかりの一人の旅僧が村人にこの実情を聞き、痛感した旅僧は「拙僧をこの地に埋よ、以って万人の難渋を救わん」と名を秘し自ら人柱に甘んじた。
 其の後、毎年の災害は後を絶ち平穏に村民は暮らす事が出来た。この高僧の徳を偲んで尾頭の地に堂宇を建立し、毎年六月十八日を命日と定め供養を行って来た。
    然るに戦国の争乱は果しなく続き、度重なる兵火の災に遇い修理或は再建の暇も無く、村々は疲弊し住人は困迫して何時とはなしに歳月は流れ忘れ去られてしまった。

 其の後、元文三年(1738)桜町天皇の頃、魚問屋の伝吉という仏心厚き者が供養塔を改めて建てたが、年移り星代わり時代の変遷と共にこれを伝える者もなく今日に至った。
 ここに、このたび当町有志一同が発起し高僧義人の道徳を賛え、永遠に広く世の人々に伝えんものと供養塔を由緒ある畑中地蔵尊の地に移し参らせ、一礼この由来を誌したものである。
        昭和三十九年六月二十八日〕

 戦国時代に今の尾頭橋近くを流れていた川があり、大雨が降るとすぐに堤防が切れ橋は流され村人は困り果てていた。ある年復旧工事を村人総出で行っていたところへ旅の僧が通りかかり、進んで人柱となった。
その結果、水害はなくなり人々は僧を祀る御堂を建てたが、戦乱が続く戦国の世なので御堂を維持することができず忘れ去られてしまった。
 それから百数十年後の江戸時代中期に伝吉が供養塔を改めて建てたが維持する人もなく、町内の有志が僧の偉業を伝えるため畑中地蔵の所へ移した、という内容である。
 日本各地に城や堤防、橋の建設にあたり僧や巡礼などを人柱として埋めたという伝説があるが、これもその一つで、この話ができたのは、「黒川」が出てくるので明治10年以降であろう。

◇人の暮らしを支える橋の供養
 人柱の僧を祀った御堂のことが忘れ去られてからはるか後に、魚屋伝吉が僧の供養のために供養塔を建てたとするのは無理があり、伝吉は江戸時代に堀川に架かっていた七つの橋を供養するために建てたと考えるのが妥当であろう。
 日本では命ある者を供養するだけでなく「針供養」「人形供養」など人の暮らしを支えてきた物も供養する風習がある。江戸時代の堀川には7つの橋が架かっていた。上流から、五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋・尾頭橋である。堀川に架かる七つの橋は、風雨にさらされ、行き来する人々に踏みつけられ、木製なので数10年で寿命を終えて架け替えられた。それを悼んで7橋の一番下流に架かる尾頭橋のたもとに供養塔を建てたと考えるのが妥当と思われる。

 この地方では橋供養塔は珍しいが埼玉県にはたくさんあり、荒川上流河川事務所が発行したパンフレットには次のように書かれている。
 「埼玉県にはあちこちに石橋供養塔が残されています。その数は現存するものだけで300基を超えます。
これらは江戸中期から明治初期に建立されたものが大半で、その形状は墓石に似た角柱型のもの、自然石を利用したもの、石仏型のもの等多様です。
 建造の目的は必ずしも明確ではありませんが、①流失、あるいは退役した橋の供養 ②新しい橋が長持ちするための祈願 ③通行人の安全祈願 ④橋の建設工事の殉職者や溺死者の供養等と言われています。石橋供養塔は埼玉県を中心とした関東地方に集中して分布しており、江戸時代の関東地方の民間信仰を考える上で重要です。」



 2021/07/03